カンボジア除隊兵士プロジェクト報告

 

阪口直人です。今回は、私が責任者として関わっているカンボジア の除隊兵士支援活動について、下記のテーマを中心に講演を行ないました。  
1.プログラムの概要  2.除隊兵士が直面している状況 3.平和構築におけるプログラムの位置付け  4.市民としての平和構築活動への関与の方法
レジュメは、大学生や主婦の方々などの参加が多かったこともあり、除隊兵士を取り巻く状況をより身近に感じて頂くべく、インターンとして現地で活動した大学生の目でプログラムを紹介する形式になっています。セミナーは、このようなストーリーを一緒に読みながら、結果として2の項目を理解して頂くように組み立てました。そして「平和」を構築する上での私たちひとりひとりの役割を共に考えました。

 

レジュメ

 

■インターバンド除隊兵士支援活動報告■

 

1. 平和構築 2. 除隊兵士支援の意義 3. カンボジアの兵員削減状況 4. 除隊兵士の置かれた状況

(1) 除隊兵士が置かれた状況のギャップ

(2) 元兵士の社会復帰を阻害する農村社会の現実
     
土地問題と地雷 雇用機会の限定 心身の後遺症

    ④ 教育機会の欠如 農村金融の存在と借金

5. インターバンドの活動

(1) 活動の独自性

   ① ジェンダーの視点 ローカルマネー及び現地NGOとの提

    ③ 仕事と市場の創造   事業計画立案の指導

        除隊兵士を講師としてのワークショップの実施
(2) スタッフの教育
     
就業規約 マニュアルの作成

    ③ スキルアップトレーニングへの参加
(3) 活動の評価
     
成功要因の分析 失敗要因の分析
(4) 今後の課題
    
 ①現地NGO等との提携強化 ②支援家族の選択

       ③活動の質の向上     

 

■ストーリー■

 

大学生の亜希子さんは、紛争後平和再建NGO・インターバンドのインターンとしてカンボジアに行く機会がありました。彼女はプログラムのサポートをするため、インターバンドのプロジェクトが行われているコンポンスプー州に滞在し、多くの除隊兵士や、その家族にインタビューをしました。 チャントリアさん(17歳)は、そんな活動を通して仲良くなったカンボジアの女の子です。彼女は今、現地NGOで縫製を学んでいます。インターバンドは、除隊兵士の娘や妹などが経済的に自立し、家族を支えることができるよう、ローカルNGOと提携し、学ぶ機会を提供しているのです。 亜希子さんがインタビューしたチャントリアの境遇をできる限り自分のものとして考えながら、紛争後平和構築における除隊兵士支援活動について一緒に考えましょう。 「私のお父さんは今、35歳です。11人兄弟の9番目だったお父さんは1983年、15歳の時に徴兵され、それ以来、ポル・ポト派との戦闘の最前線で闘い続けてきました。しかし7年前、戦闘中に銃撃を受け、重傷を負いました。すぐに治療を受けることができなかったため、今でも銃弾が右肩には銃弾が入ったままで、神経が圧迫されて、ずっと痺れているそうです。片目も失明しました。服を着ていると普通の人のように見えますが、体が言う事を聞かないので、軍人としての役割を果たす事はできなくなり、居心地が悪くなってしまったようです。 それ以来、お父さんは人が変わったようになりました。やさしく、陽気な人だったのに、たまに帰ってきても、気難しくなり、遊んでくれることもなくなりました。 痛みを忘れ、気を紛らわせるため、お金が手に入っても、お酒を飲んで酔っ払ってはお母さんや私たちに乱暴するようになりました。また、近所のおじさんたちと闘鶏やクメールボクシングなどの賭け事をしては、さらにお金を失い、やけ酒を飲んで暴れるようになりました。時々プノンペンの町に行っては悪い遊びをしているという噂も聞くようになりました。 お母さんは近所の農家の掃除をしたり、田植えや収穫の手伝いを始めましたが、一日3000リエルほどにしかならない上、いつも収入があるわけでもありません。私たち子供も、勉強よりも働くことの方が大切になりました。私は弟や妹の世話をしながら、遠く離れたマーケットまで歩いて行って、売り子の手伝いをするようになりました。でも、もらえるお金は2000リエルにもなりません。 そんなお父さんがもっとも恐れる事態がやってきました。政府の除隊プログラムが始まったのです。カンボジアには2000年の時点で(1.①約9万人 ②約14万人 ③約30万人)の兵員が存在していましたが、軍の維持は国家支出の40~50%になるため、内戦が終結した今、兵員削減は大きな課題です。実際にはほとんど仕事がないままに、多数の兵員を抱えることは、政府にとっても大きな負担になるからです。従って、武器の回収と動員解除、そして社会に再復帰させること(2.DDR ②UNTAC ③ARC)は、将来の紛争を予防する上でも非常に大切なプロセスとなのだそうです。  私たちの家族には、現金240ドルと150キロの米、2・5キロの魚の缶詰、3キロの油、塩、蚊帳、毛布、ハンカチなどが支給されました。しかし、それまで20ドル程度だったお父さんの報酬はなくなってしまいました。   以前お父さんは、薬の購入や賭け事のため親戚に借りた借金を返すため、金貸しに月10%の利息で100ドルを借りたのですが、1年後には(3.①179.5ドル ②313.8ドル ③984.9ドル)になっていました。お父さんは学校にはほとんど行っていないので、読み書きや計算ができません。金貸しは、催促することもなく、利子が増えるのを待っていたのです。240ドルが入ったことが伝わると、目付きの悪い男たちと一緒に取り立てに来ました。支給されたお金が全額なくなってしまっただけでなく、母が野菜を作って売っていた小さな土地も取られてしまいました。 心労のため、そんな時に母と妹が病気になってしまいました。病院に行くことができないばかりか、薬を買う事もできず、本当に絶望的な気持ちになっていたのです。 そんな時、さらにショックなことが起こりました。私の友達のラチャナが、プノンペンに行って働くことになったのです。彼女がどんなところで働くことになるのか、私にも何となくわかります。数年前、近くに住むお姉さんがやはりプノンペンに行くといって突然いなくなりました。それ以降、全くの音信不通です。 次は私が行くことになるかもしれない・・・、そう思うと、夜も眠れないほど不安で恐ろしい気持ちになるのでした。そんな時に突然やってきたのが、日本からやってきたNGOインターバンドでした。 「毎月20ドルのお金で新しい生活を始めよう!」日本人のスタッフが爽やかに言いました。「そのお金はもらえるんですか?」 私は思わず聞いてしまいました。 「返さなくてもいいんだよ。でも、最初の6ヶ月だけだからね。その間に、生活を再建するための事業計画を一緒に考えよう! 心配しなくてもいいよ。きっと上手くいくから!」日本からきた青年は、自信たっぷりに言いました。 「一週間後にワークショップをするから、必ず来てね!」 その男の人は「事業計画書」と書かれた紙を渡し、それまでにプランを書いておくようにと言いましたが、私たちは、何も書く事はできませんでした。 私は家の中ではただひとり、少し読み書きができるので、一週間後、お母さんと一緒にワークショップに行きました。行ってみると、顔見知りの除隊兵士の家族も来ていました。みんな貧しい家の人たちばかりでした。そこで言われたことは次のようなことでした。 私たちは最初の20ドルで15羽の家鴨とワクチンを購入しました。最初は鶏を飼おうと思ったのですが、家の近くには小さな川があるため、成長が早く病気になりにくいアヒルを飼う事にしたのです。次の月は20羽買いました。インターバンドには農業の専門家がいて、彼らが持って来てくれたマニュアルに基づいて飼育したところ、2ヵ月後には、2.5倍以上の値段で売れました。 少しお金がたまってきたので、3ヶ月目は20ドルで豚を購入し、飼育を開始しました。また雑貨屋を始めようとしましたが、カンボジア人スタッフのクン・チャイ氏は、「近くに同じような店があるので難しいよ!」とアドバイスしてくれました。相談した結果、ココナッツ風味の揚げ菓子を作って、お母さんと私たちで売ることにしました。作り方は、インターバンドのスタッフが先生を連れて来てくれたので、彼女に教わりました。みんなでアイディアを出し合い、カニや魚の形にして揚げるようにすると、子供たちに大人気になりました。学校帰りに沢山買いに来るようになり、一日の売上が10000リエルを超え、8000ドル以上の純利益を生むようになりました。今月からはさとうきびジュースも売り始めました。さとうきびを絞る機械がついた屋台を借りるのに一日2000リエルかかりますが、毎日7000リエル前後の売上があるので、4000リエルほどの純利益を稼ぐことができます。 後で聞いたのですが、日本人のスタッフの方は、一度社会人になり、日本の会社で海外に製品を輸出する仕事をしていたそうです。カンボジアのような国で働きたいと思っていたそうですが、教える技術を持っていないので、自分には無理だと思っていたようです。でも、昔やっていた仕事の知識や経験を活かしてアドバイスしてくれるので、とても助かります。自分でもできる仕事ができたせいか、お父さんはお酒やギャンブルもやめ、ずいぶん穏やかになりました。小さいお金ではあっても、効率的に、確実に収入に結び付ける方法を知った事は、私たち家族にとって大きな自信になりました。 そんな時、インターバンドからNGOで研修を受ける機会を紹介されました。妹や弟を残して寄宿舎に入るのは不安でしたが、少し生活に余裕ができ、将来のための準備をすることができると感じた私は、お父さんにもお願いし、6ヶ月の研修を受ける事になりました。 学校での生活はとても楽しいです。私自身も、早く縫製技術を身につけ、縫製工場で働きたいです。頑張って働けば月に60ドルから80ドル近くも稼げるのです。そうすれば、妹や弟も学校に行けるし、両親の生活を楽にさせることもできます! それが今の私の夢なのです。

 

 

 

事業を始める上での注意事項(資料)

 

① 最初は比較的容易で成果の上がりやすいプロジェクトから始める
(                        )
② リスクの分散(多角化)
(                     )
地理的・社会的状況に応じた起業
1.近くに川がある
2.近くに道路が通っている
3.技術を持っている
4.周囲と競合する場合差別化を図る
プロジェクトに応じた危機管理(リスクを避けるための対応)