2001年東ティモール憲政議会選挙

私は998月末の住民投票の前後にも現地調査で短期間、東西両ティモールを訪問したことがある。投票後の混乱を察知し、9月上旬にフェリーで東ティモールを脱出、果たしてその直後に多国籍軍の派遣を必要とするほどの大混乱が発生した。ちょうど2年後の今も、ディリの町のあちこちに屋根が落ちたままの廃屋を見ることができ、傷跡の深さを物語っていた。町の大半が破壊されたということがまんざら誇張ではないことが実感できる。二年前の時にホテルが満杯で、モトタクシー・ドライバーのローレンソという人の家に泊まらせてもらったのだが、今回、空港に程近いコモロという地区にある彼の家を再訪して見ると、未だに焼け落ちたままになっていた。近所で聞いてみても、彼の一家の消息は分からない。自分が実際に泊まった家が破壊されている様子に私は改めて焼き討ちのおぞましさを実感し、ショックを感じたものだ。それと同時に私と一緒にフェリーでどこかへ逃げたいと言っていた彼の祖母の不安げな表情が脳裏に蘇りもした。今、ローレンソ一家はどこで何をしているのか。しかし傷跡を抱えながらも、今、人々の表情は明るい。多国籍軍導入、PKOである国連東ティモール暫定統治機構(UNTAET)を経て、いよいよ具体的に独立が視野に入ってきたからだ。今回インターバンドは日本から15名の監視団を派遣し、日本国際ボランティアセンター(JVC)からの2名もインターバンドチームに合流したので、日本人総勢17名という規模になり、いわゆるPKO協力法による日本政府監視団の規模を上回ることとなった。規模だけでなく、安全に気を使いすぎるあまり行動や配置地域にあまりに制約の多かった政府チームに比べ、インターバンド監視団は、遠く南部のスワイ地域に7名が展開したのに加え、タイに本部を置く民主化支援NGOANFRELのチームに7名が参加し、こちらは各県に広く散らばって監視活動をした。さらには選挙前には、ANFRELと共同で海上ホテルで記者会見を行い、これには独立運動の指導者シャナナ・グスマン氏も顔を見せるなど、大いにNGOの活動をアピールすることができた。

今回の選挙は9月中に制憲議会を創設するための選挙だ。未だに親インドネシアの政党がないわけではないが、基本的には住民の大部分が独立支持で、その独立のための議会作りのための選挙なのだから、基本政策上の重大な争点があるわけではない。16の政党が争う比例代表制の全国区(定員75名)と13の地方選挙区から選ばれた13名の計88名が独立に向けた憲法を作る議会を構成する。予定では2001年度中に憲法が採択され、2002年に入るといよいよ独立が宣言され、国連PKOであるUNTAETの役割も終了する。選挙戦は、週末に街頭を支持者を乗せた宣伝車が走り回るとか、市内のスタジアムにバンドを呼んで、エンターテイメント色の濃い決起集会を催すというものだ。PST(ティモール社会党)の決起集会を視察したが、反帝国主義、反資本主義、反新植民地主義などのフレーズが飛び交い、まさに歴史の時計が狂い始めた1975年にタイムスリップしたかのようだった。もっとも最終日の28日に長年、独立闘争を担ってきたフレティリンがディリ市内で大規模なラリー、集会を行う前までは、これが独立へとつながる議会選挙かと目を疑うくらいに静かな選挙戦だった。街中ではポスターや旗などが目立つこともなかった。しかし最終日にフレティリンが大動員をかけ大規模な集会などを行うと、圧倒的な組織力の違いを見せ付けた形となった。さて830日の投票日は、ディリ地方は朝から快晴だった。スワイに展開したインターバンド監視団、ANFREL監視団に参加して各県に散らばった面々との連絡調整役を兼ねた私は、中心都市ディリに一人留まり、ディリ市内の選挙監視にも従事した。私は、ディリのホテルから至近の投票所で、開始前の6時半から監視を行った。ここは教会の横の空き地にテントを設営したにわか仕立ての投票所だ。この投票所は7時から選挙スタッフ、政党代理人の投票が始まり、一般の投票が始まったのは8時からだった。しかしその間、列を作って待っている人が騒ぎ出すようなことはなく、子供連れの女性などを優先して、投票させていた。ここのチーフはオランダ人女性でインドネシア語を使いながら、監督をしていた。その後、さらに二ヶ所の投票所を監視に訪れてみると、どちらも学校が投票所となっていて、一方の投票所は修復が終わった学校を使用しており、日陰となる校庭に列を作って待たせ、4つの投票所へ秩序だって投票人を誘導していた。いずれの投票所へ行っても、周辺の治安も完全に保たれていて、投票所内も不正行為などは皆無で、自ら監視した範囲では極めて自由公正との感触を得ることができた。午後4時の投票締め切りの時間までには初めの投票所に帰ってきて、終了の手続きを監視したが、計ったかのように4時までには投票人の列もなくなり、拍子抜けするくらいに順調に投票所を閉めることができた。今回の選挙においては、有権者数421千人、投票者数は比例代表の全国区で384千人、投票率は同じく全国区で91.3%であった。開票作業は投票日の翌31日から開始され、日本の感覚から言うとのんびりに見えるが、結果は96日までには出揃い、10日に公式に確定した。勢力図はフレティリン(Fretilin)55議席、民主党(PD)7議席、社会民主党(PSD)6議席、ティモール社会民主連合(ASDT)6議席、ティモール民主連合(UDT)2議席、ティモール民族党(PNT)2議席、ティモール闘士連合(KOTA)2議席、ティモール人民党(PPT)2議席、キリスト教民主党(PDC)2議席等となった。フレティリンが単独で憲法を採択できる60議席には届かないまでも軽く過半数を制し、他方、フレティリンの分派でより急進派と言われるASDTが予想以上の健闘を見せ、さらには親インドネシアと言われる諸政党も少数ながら議席を確保していることからも分かるとおり、住民は結果的に極めてバランスの取れた選択をしたことが分かる。今回の東ティモール選挙監視に参加していくつか感じたことは、2年前の状況と比べてみると、今回は住民の表情が桁外れに明るい、ということである。2年前は独立に投票した人々はその直後から何かに怯えるような表情をしていた。事実、私も身の危険を感じて、到着したばかりの東ティモールを早々に後にして、脱出した。今度は、長年の仇であったインドネシア国軍も、警察も、民兵もいない。自分たちの議会を作る選挙なのだ。住民たちは本来のラテン・アジア的な明るさを取り戻したようだった。

さて東ティモールに和平は来るのか。選挙結果を受けて915日には制憲議会が発足し、20日には閣僚名簿が発表され新政府が発足した。滑り出しはきわめて順調に見える。デメロ特別代表も記者会見でそう明言していたが、私も和平については楽観的だ。独立後、西ティモールとの国境の安全さえ図ることができれば、東ティモール人自身が紛争を繰り返すことはないだろう。併合派を中心に、故郷に帰還できないばかりか、今回の選挙でも埒外に置かれた東ティモール難民10万人以上がインドネシアである西ティモールに今なお残留している。その帰還希望難民たちの帰還が制憲議会初召集と前後するように9月中旬から始まった。国境の安全確保こそ、UNTAET撤退後の国際社会の責務である。

経済的な問題
独立後の東ティモールの経済的自立に自嘲的になる人が多い。主人がインドネシアからオーストラリアを中心とした国際社会に変わるだけだと。あるいは当面の歳入の大半を外国支援に頼るような独立がそもそもあっていいのかと。確かに東ティモールは軍人や警察を含めた公務員の数がやたらと多い国になるのは見えている。他方でコーヒーくらいしか輸出、換金の可能な農産物もなく、産業が発展する要素にも乏しい。しかし他方で東ティモールには、グローバリゼーションの大きな潮流のなかで、国際標準に組み込まれ、経済開発を行うという選択肢以外に、南海の平和な楽園として生き、産業開発を敢えてしないという選択さえあるはずだ。環境に優しい観光立国を目指すことも可能だろう。圧倒的にポルトガル文化が濃厚で穏やかなこの島国のために国のグランドデザイン、青写真とでも言うべきものを誰かが描く必要がある。

帰還者に関する課題
私は今回、選挙時だけでなく、議会の初招集、内閣の発足まで現地で見届けることができた。その間だけでもこの国が抱える課題のいくつかを垣間見ることができた。初召集された制憲議会で大半の議員はポルトガル語で発言しており、一部がテトゥン語あるいはインドネシア語で行われているに過ぎない。なぜなら大半の当選者がインドネシア統治時代をポルトガルやアフリカなどで過ごした帰還組だからだ。帰還指導層に浸透したポルトガル語は予想以上に根強い。こうして、帰還指導者と国に残って独立闘争に従事していた指導層との確執の可能性が見て取れる。西ティモールから帰還しつつある難民との和解、定住促進も大きな課題だ。さらに付け加えるなら、滞在中に米国での同時多発テロが発生したが、圧倒的にカトリックが多い東ティモールでは、モスレム系の少数派住民への反発が強まった。新内閣を率いるフレティリンのマリ・アルカティリはモスレム系で、彼も居心地が悪い時間を過ごしたに違いない。こうした少数派住民の動向も目を離せない局面だ。

文化問題
また、東ティモールが抱える重要な問題の一つに文化問題がある。東ティモールの現状をいちばん反映しているものの中にテレビ放送がある。国連が支援して東ティモール・テレビが放送されているが、テトゥン語による自前のニュース番組はあるが、それだけで時間枠を埋めきれず、ポルトガル語放送、英語放送、インドネシア語放送の一部をそのまま借りてきて流している。また「東ティモールの声」という新聞は、紙面が何とテトゥン語、インドネシア語、ポルトガル語、英語で構成されている。4言語を記事によって使い分けているのである。大体の傾向はと言えば、わずかに国際ニュースが英語で書かれている以外、国内の重要なニュースはその他の3言語で書かれている。国の言葉をどのように定めるのかは文化問題の根幹であり、それは究極的には教育を行う言葉の問題に行き着く。当面、公用語はポルトガル語、国語はテトゥン語と決まり、民族文化復興の方向性は決まった。今後、共通語(リンガ・フランカ)としての地位にあるテトゥン語は急速に書き言葉として整備され公用語への階段を登ってゆくだろう。

司法整備
東ティモールで現在施行されている法律に関して言うと、UNTAETが公布した規則が優先適用される他、それ以外では9910月以前に施行されていたインドネシア占領時代の法律が可能な範囲で暫定適用されている。今から年末までに新憲法の制定作業が鋭意行われる他、2002年に新国家が成立すると、民事法や刑事法、経済法を含めたすべての法律が順次新たに制定されてゆくだろう。これまで類を見ないような新国家の骨組み作りが始まるのである。その際、東ティモールが真に必要としているのは必ずしも借款や投資ではなく、国家の仕組みを作り、それを運営するノウハウである。

政治制度・国民の政治参加
インターバンドでは、年末までに国中で議論され、議会で採択される予定の憲法について、そのなかで国の政治制度がどのように規定されるべきか、人権問題はどのように扱われるべきかといったテーマについてワークショップ形式で住民の関心を喚起し、各層の意見を掘り起こすべく、南部スワイ地区で住民教育のプロジェクトを行う予定だ。その過程で日本からの法律専門家の参加も検討されるだろう。そうしたNGOのパイオニア的な活動が触媒として機能し、ひいては日本と東ティモール間の学術交流に拡がり、あるいはJICAによる大掛かりな法整備支援事業の萌芽へと発展してゆくことも十分に考えられる。

以上述べたような状況に置かれた東ティモールにおいては、必ずしも従来型の経済発展を目指すのではない、ソフトな協力が今、求められている。その意味で東ティモールへの関わりは、日本に大きな課題、試練と絶好の機会を与えていると言えなくもない。     

 

(報告: 小川秀樹)