2001年スリランカ選挙

 

政権交代を賭けた2001年のスリランカ総選挙

 

2001年12月5日に行われたスリランカにおける総選挙の国際選挙監視に参加した。選挙監視を組織するスリランカのNGOであるPAFFREL(自由公正選挙民主運動)の招待で、そしてそれに対して監視員を派遣したタイの民主化支援NGOであるANFRELチームの一員として、日本からインターバンドを代表して参加した。11月30日に東チモールからバリ、バンコクを経由してコロンボに到着。12月1日と2日の2日間にわたり、PAFFRELが主催する国際選挙監視のブリーフィングが宿泊ホテルのホールで行われた。80人程度の監視員が集まっているが、インド、パキスタン、バングラデッシュ等の南アジア勢が目立つ。アフガン危機の関係国であるパキスタンは言うまでも無く、自国に社会不安を抱えるインドネシア、ネパールからも大勢の参加がある。香港、韓国からも参加があるが、リストから見る限り日本人は私一人。なおインターバンドが提携するタイのANFRELが今回派遣したのは13名の監視員だった。

PAFFRELは今回、北欧諸国、ドイツ、USAIDなどから2100万ルピー(約3、000万円)の資金を得て、そのうち1300万ルピーを、約90人の外国人オブザーバーを招聘することに費やしたと報じられていた。もっとも外国人監視員が必要とされるのにはそれなりの理由がある。スリランカ人は選挙監視員として投票所のなかに入れないという制約があるからだ。

外国による選挙監視ということでは、EUがスリランカでも選挙監視に参加していて、近年、世界の平和構築、民主化に積極的に取り組むEUの姿勢がよく現れていた。

 

民族問題と民主主義が問われる選挙

スリランカの総選挙が注目される理由は二つある。一つは言うまでもなく国土が分離されたかの観がある北東部の少数民族タミル系との対立の行方を占うことができる選挙だからであり、他の一つは選挙に際して毎度のように多くの暴力事件や選挙違反事件が起こるお国柄で、人権の問題となるほどに選挙の民主性が問われているからである。

前者に関して言えば、スリランカは多数派のシンハラ系(74%)に加え、スリランカ系、インド系を合わせ18%を占める少数派タミル系によって構成されている国である(他にモスレム系その他がいる)。こうした人種構成に重なるように、仏教、ヒンドゥ教、モスレム、キリスト教と宗教の違いが存在し、民族的、宗教的に複雑な様相を呈している。

1956年に当時の連立政権がシンハラに重きを置く政策を取り始め、シンハラ語を唯一の行政用語に指定したことに端を発し、タミル系住民との半世紀近くにも及ぶ民族問題が始まり、とりわけ83年の両民族間の大衝突以降、対立が先鋭化してゆくこととなる。島の北東部、とりわけ北部は、タミル系が多数を占め、LTTE(「タミル・イーラム解放の虎」、現在は非合法戦闘組織)が支配する地域になっている。18年に及ぶ断続的な内戦の過程で、約6万4千人が犠牲となっている。

国土の一部であっても内戦が進行していれば、観光収入は減り、国防費の支出は増え、スリランカ経済の足を引っ張ることになる。2001年7月には空軍基地があるコロンボ空港がタミル過激派の攻撃を受け、航空機が破壊される大事件が発生し、それ以降、観光客がさらに減少、コロンボへの航空便が削減されたりする状況になっている。今回、バンコクから飛行機に乗ったが、コロンボ便だけは、透視装置での検査に加えて、係員による荷物検査、さらに搭乗前にも再度検査があるなど、異常な警戒態勢であった。私は思わずかつて赴任したことのあるイスラエルの空港における世界一厳しい検査を思い出してしまったほどだ。その状況が9月11日の米国における同時多発テロによりさらに増幅されたことは想像に難くない。80年代の世銀・IMF主導による構造調整を乗り切り、90年代は順調に推移してきたスリランカ経済は今年、ほとんどゼロ成長まで落ち込む見込みで、独立以来、最悪の経済不況のただ中にある。

こうして選挙の争点は、低迷の続くスリランカ経済の建て直しと北東部のタミル問題への対処である。特に後者のタミル分離問題については、野党UNPがLTTEと密約を交わして、国土の分割を画策しているとして、最大の争点となっていた。その背景として、タミル問題へのイニシアティブは最大野党UNP(統一国民党)が取り、北東部に二年間、暫定評議会による暫定統治を行うことを骨子とする解決案を提示していた。与党PA(人民連合)側はこれを東北部分割につながる案であり、UNPとLTTEとの間に国土分割に関する密約があるとして激しい批判の対象としたが、結局その後、与党側も東北部を10年間の暫定統治の下に置くというほぼ同様の提案をするに至っている。

現在は、与野党ともにLTTEの非合法化と解き、東北部を暫定的に特別な政治地位に置くことを検討しているところだ。とはいってもUNPが和平促進派であり、PAは慎重派であることに変わりはない。タミル問題については、国際社会も積極的に関与しており、とりわけノルウェー政府は、パレスチナ和平のおけると同様、和平仲介で中心的な役割を果たしている。

 

選挙監視と選挙結果

今回の選挙は前年10月に行われた総選挙に続くもので、与党側の事情というより、最大野党のUNPの攻勢を受けて行われたという側面がある。6月の段階でムスリム系政党が連立与党を離脱、与野党逆転が生じており、政府不新任動議が提出されていた。大統領は7月、国会停止をもって応じ、再開された9月に同動議が再提出され、政権内の不満も高まり与党から脱藩する議員もでるなど政権の混乱が高まっていた。

10月10日に議会が解散、21日に選挙戦がスタートしたが、投票日に至るまでに過去の例に漏れず多くの暴力事件が発生している。警察側の統計では投票前日までに25名の死者を出し、事件数は2000件を突破している。選挙戦に関係する事件のうちの95%は与党PAと最大野党UNPの二大政党間のもので、いわゆるタミル過激派のゲリラ活動に直接関わるものではないことに注意する必要がある。

選挙制度は全土が22の選挙区に分けられ、225人の議員を比例代表(正確には一部、ボーナス議席という方式が取られている)で選ぶものである。

投票は12月5日、全国一万ヶ所に近い投票所において、朝7時から午後4時までの間に行われた。投票を巡る治安情勢はたいへんな地域差があったようだ。私が担当したコロンボ南部沿海のカルタラという地域は、シンハラ系が圧倒的多数を占める地域柄もあるのか、報告フォームに記入することがほとんど何もないほどに秩序だってスムーズに投票が行われていた。モスレム系が多数を占める地区の投票所でも、何の不穏さも見えず、淡々と投票が行われており、宗教の違いがただちに問題を引き起こしているわけではないことを実感として感じることができる。あまりに報告すべき事件等がなさ過ぎるので、ホナラという首相のお膝元で、町中がPAの政党色である青のデコレーションで飾られており、これは問題ではないかと問題提起を報告のなかでしておいた。

他方でANFRELの一部の人が担当した中部山岳地マタレなどでは、威嚇や発砲騒ぎなどにより投票所に近づけなかったり、ギャングが投票所内部を徘徊しているので、中に入れなかったり、さらには投票所で本人の確認をしないままの投票が行われるなど組織ぐるみの不正が横行している場所もあったという。結局投票日だけで全土で10名の死者が報告されている。与党PAのチャンドリカ・クマーラトゥンガ大統領、ラトゥナシリ・ウィクラマナヤケ首相などは治安上の理由で、投票所へ出向くのを諦め、自宅で特別に投票をしたほどだ。こうした二大政党間の争いの余波を受け、タミル過激派との対話路線を掲げる野党UNPにタミル人の票が流れるのを食い止める意図からか、東北部のLTTE支配地域への通過地点が政府側により閉鎖され、これにより5万人もの人が投票できないという事態も起こり、EUなどはこれを今回選挙における最も深刻で不正な措置だとした。

毎度のことらしいが、投票後の午後9時半から翌朝6時までは外出禁止令が敷かれ、結局それは翌々日の7日まで延長された。7日、外出禁止令が解除された後すぐに暴力行為が多発したので、選挙結果発表の直前に、再度外出禁止令が出され、それは8日朝まで延長されるというバタバタぶりであった。

開票は投票日の夜から全22選挙区の開票所で始まり、翌日には結果が出揃うはずだったが、夕方までに10の地域のうち9地域でUNPが勝利したことが明らかになっただけだった。結局、選挙委員会の判断により、独立後の選挙の歴史の中で初めて、公式結果の発表が中断され、投票日の翌々日の7日に延期された。選挙委員会が発表した結果によると、225の議席のうちUNP連合陣営が129議席を占め、PA連合陣営は96議席に留まった。この結果を受け、PA政府は直ちに辞職した。

EUもPAFFRELも一部選挙区で再投票の必要性を指摘したが、選挙委員会と各政党は再選挙の必要なしとの見解で合意した。こうして与野党が逆転する結果が確定した。もっとも2005年まで任期がある大統領の地位に変更はないので、大統領と政権党との間にねじれ現象が起き、とりわけ大統領とラニル・ウィクレメシンゲUNP党首(新首相、52歳)の間で長年の確執が再燃することが懸念される。早速、9日に行われた首相任命式が、大統領が統制している国営テレビでは生中継されず、他方、大統領の警備官が二つの民間テレビ局の取材クルーを追い出すという角合わせがすでに始まっている。当面の注目は、大統領が現在保持している国防大臣、軍最高司令官、大蔵大臣の職務を手放すかどうか、特に伝統的には大統領が務めることになっている国防大臣のポストの動向である。慣行的には、大統領と首相との政党が違った場合、大統領は政府には口を挟まないということになっているが、今回、大統領がどう出るか。

こうして94年以降、久々にUNP主導政権が誕生することとなった。PA側敗退の最大の原因は、大統領の敵対的、独善的な政治手法が国民の期待に応えられなかったことで、タミル分離主義者と徹底的に戦うその姿勢からは経済復興への期待を抱くことは所詮無理であった。逆にUNP側は、自由経済と和平への取り組みをアピールし、それが奏効した形となった。それを反映するように証券市場は選挙結果を好感し、選挙結果発表日の株価終値がこの三年間で最高値を記録している。面白いことに、南アにおけるオランダ系、英国系の違い、イスラエルにおけるリクードと労働党の違い等と同様、経済の重きを置く勢力ほど和平に前向きなことが、このスリランカについても言えるように思われる。

 

(報告:小川秀樹)